カテゴリ:雑想( 76 )

美しい道筋

将棋の羽生善治さんの本を、読みたい時に読みたい箇所を読んでいます。

その中で、「美しい手順でさせた時には、独特の楽しさも知ることになります」という箇所があり、登山家の山野井泰史さんを思い出しました。

山野井さんも、岩壁を登る時には、美しさという言葉を使っていたと思いますが、いつしか僕らは美しいという生活も生き方も忘れてしまったのだと思いました。

お二人とも、人間的な魅力に長けた人で、それは卓越した技量を持ったからではなく、美しさを求めたから、人格が形勢されていったのではないかと思わせます。
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by masagorotabi | 2014-01-09 20:30 | 雑想 | Comments(0)

自信

前回の書き込みを踏まえての内容になります。

自信を持つには、どうしたらいいのだろう。
そんなことは簡単さ、誰よりの優れたものを持つことさ。
そんなことが簡単に出来たら、誰もが自信を持つことができるだろう。

人間社会においては、評価されるということが、最も自信を持つことができる早道かもしれません。
評価されるには、その社会の慣習、忠実、礼節を持ち得たものこそが自信家になり得る(?)。

プロスポーツ界に置いては、誰よりも技量、体力に勝り、自他共に認められたものが自信というものを持つことができる。

自信を持つことは、打算も加味して、度が過ぎると品性が劣る可能性がある。
もっと簡単に自信を持つことができないだろうかと考えてはみるものの、やはり、そう簡単ではないことに気づく。

僕は、もっと自由に生きたいので、「自分らしさ」という気分を大事にしたいと思う。
自分らしさというのも、ある種の能力だと思うけど、世間の眼を気にして何も出来なかったり、他人に媚びたり、そんな風にして生きることはしないようにしたいなあと思うのである。

善良な人は極めて少ない社会(僕はそうに思っている)においては、気にした分だけ、らしさを失うように思えてならないのである。
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by masagorotabi | 2013-12-21 20:39 | 雑想 | Comments(0)

パーソナルスペースと社会性

歩きながら考えたことだけど、前に同じようなことを書いたことがあるかもしれません。

自動車というのは、交通弱者をないがしろにする傾向にあると運転手の顔を見ながら、そんなことを思っていた。
自動車の中の空間は、運転手にとってはパーソナルスペースとなり、何人も寄せ付けないものであると考える。
その反動というべきか、他者へのいたわりが軽薄になる。

阿部謹也氏の本を読むと、個人という概念が日本と欧米では違い、たとえば知り合いが後ろからポンッと肩を叩き「よおー!」なんて声をかけることはないと記されてあった。
自分の身体から数十センチに他人を軽々しく侵入させることはないという。
(つまり、ぎゅうぎゅう詰めの見知らぬ同士の満員電車はありえないということ)
それでいて、親しくなればハグをしあうのだから、欧米人の個人という概念はこういうものなのだなと思い知る。

日本人の場合は、個人よりも世間体というものが支配する。
だから、個人になれていない日本人が自動車という個人を得たとき、うまく他者と渡り合うことができないのではないのかと、僕は考えるのである。

欧米人が持つ個人がいいというわけではなく、個人、世間、どちらも上手に操縦してこそ、より良い生活の構築ができるのではないかと、歩きながらそんなことを考えていたのでありました。
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by masagorotabi | 2013-09-24 22:33 | 雑想 | Comments(0)

本気と責任

「青い鳥」という映画を観ました。
これで2度目ですが、やはりいい映画だと感じます。

前にも紹介しましたけど、阿部寛さん演じる臨時の教師が、イジメで自殺未遂を起こしたクラスにやってきます。
イジメられた生徒は、他校に転校してしまった後のお話ですが、そのクラスにある刺を抜く役割が、その先生です。

「人が本気で話している時は、本気で聞かなければならない」
「犯してしまった罪は、責任を持って背負わなければならない」
というようなセリフ(不確か)が心に残ります。
イジメに加担した生徒同士が「生きていてくれてよかった」と話すシーンには、命の尊さを感じます。

自分は、本気生きているか、本気で責任を背負っているか、そんなことを考えさせられました。
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by masagorotabi | 2013-09-14 21:48 | 雑想 | Comments(0)

愛情を注ぐということ

「日本社会で生きること』(阿部謹也著)を読み返していたのですが、その中に気になることが書かれてありました。

「差別とはなにか」という項目の中の内容ですが、教師と生徒の関係性において、生徒が教師より能力がある場合、教師はどのような反応をするのかということです。

その教師が、真面目で素直な人であればその生徒の能力を生かそうと努力し、良い結果を生む、しかし教師は多少傷つきながらそういうことをするわけです。
逆に、恐怖を感じてしまう人は、愛のムチ、愛情という名を借りていじめるということが、しばしば起こると記されています。

これは教師、生徒という関係以外でも師弟、先輩後輩、親と子の関係といったものも同じで、愛情という支配関係という形は、行き詰まってしまい、愛情という言葉は口にしない方が良いとも書かれてあります。

人は他人を支配しようとするし、それができない場合は嫉妬に変ってしまう。
それがこうじて、いじめに発展してしまうことも起きる。
こうしたことは、生活の中によく見られる場面だと思います。

僕は、常々人は年齢を重ねるとともに、劣化していくのではと思っていましたが、唯一、人が熟成することができるとすれば、「多少傷つきながら」も個人を尊重し、他人を生かせる方法論を持っている人かもしれないなあと思ったのでした。
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by masagorotabi | 2013-04-30 19:20 | 雑想 | Comments(0)

希望と願望

昨年の暮れに、ある女流小説家の本を読みました。

内容はというと、いわゆるママ友仲間のドロドロした関係を綴ったものです。
終わり方も、ハッピーエンドではなく、スカッとするようなものではありませんでした。

昔ばなしの中には、救いようのないお話というのは多くありますが、宗教と違ってなぜそこに救いを求めないのだろうと思ったりします。

映画でも小説、漫画でも物語とつくものには、多くの人は希望を描かれたものを求めるのかもしれません。
でも、それは希望ではなく願望でしかないのではないか。

ハッピーエンドではなくても、そこになにかを発見し、光明が見えた時に、それを希望というのではないかと思うのである。
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by masagorotabi | 2013-04-21 21:17 | 雑想 | Comments(0)

秩序と無秩序

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養老孟司氏のネット記事に、タバコの効用について書かれてありました。

秩序(たとえば仕事とか)が生まれたら、無秩序も同時に生まれ、タバコというのはその無秩序であり、それがバランスのある生活を生む、といった内容でした。(害があるという前提のもとで)

仕事というものが辛いだけのものではなく、お客から感謝されるという無秩序もあるわけで、仕事のみでバランスのある生活をおくることもできるのであろうという解釈も成り立つと思いますが・・

我々の生活というのは、バランスシートのもとで生活していないと精神が破綻してしまうのかもしれません。

他人を虐めてしまうというのも、下劣な自分とのバランスの上で成り立っているのであろう。
虐めをなくすことは不可能という意見も聞かれますが、それは下劣な人間を根絶しなければなくならないということでもあると思うのです。

働き蟻に見る28の法則(どんなに働き者の蟻を集めても2割の怠け者が生まれる)というのがありますが、2割の怠け者の蟻がいるからこそ、蟻の世界が成り立っているとも考えられます。

無秩序も大切にしなくてはならないのかなあとも思います。
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by masagorotabi | 2013-03-04 20:06 | 雑想 | Comments(0)

裸足

「女たちよ!」(伊丹十三著)を読んでいたら、著者は自動車というものが好きではないらしい。
一番高等なのは歩き、次が自転車と書かれてあります。
(このあたりは僕と同じ)

自転車を愉しもうと心の底から願う人には、旅を勧め、なぜかカンボジアに行って頂くと記してあります。
着るものは水泳パンツ一枚で密林の中を抜けいて行く。
ふるさとを思い、恋人を思い、来し方行き先を思う。
弓矢を肩にかけた現地人がにんまり笑いながら、裸足でペダルを踏んでくるのとすれ違う。

裸足で思い出したのですが、宮古島(沖縄)をヘロヘロになりながら歩いて旅した時に、裸足でカブに乗っていたおばさんがいました。
満面の笑顔で僕に挨拶をしてくれましたが、畑仕事に行く途中だったのでしょう。

昨今、裸足で外に出るということはなくなってしまいましたが、裸足でいる機会が増えたらもっと人間らしい生活ができるかな、とそんなことを思いました。
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by masagorotabi | 2013-01-24 22:10 | 雑想 | Comments(0)

自分で考えるを考える

ネット記事の見出しだけ見ていたら、ネット中毒になると、自分で考えるということが麻痺してくるなんてのがあったと思います。

前にも書いたと思いますが、宮大工の故宮本常一氏は、弟子方には建物を見物したり本を読んだりして勉強しなくてもよいと指導したそうです。
実践をして、自分で考えるということを重視し、勉強はその後と教えたそうです。

以前、ラジオ番組の中で、ある女流小説家の方が、小説を一切読まないと語られていました。
理由として、何年ヶ後に同じ内容の小説を書いてしまい、自分の小説と勘違いしてしまうのを怖れてのことだそうです。

たくさんの情報を仕入れるということは、頭が良くなったと勘違いをしてしまいそうですが、まずは自分で考えてみるということの方が大切なのかなと思えてきます。
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by masagorotabi | 2012-12-27 21:07 | 雑想 | Comments(0)

努力と才能

ある女性のエッセイを読んでいたら、才能とはという一文があり、顔の手入れをする女性の姿が書かれてありました。
毎日、自分を磨くため、寝る前に平然と習慣のように同じ動作をする。
面倒がらずに、そのことを続ける行為こそを才能と締めくくっていました。

僕らは、一つの行為を持続させることは稀です。
飽きるということも、成長の過程と考えると、それもまた生き方の一つだと思います。

でも、続けないと到達できない地点というのも存在するので、なにげないことの連続でも、大きな実を結ぶことも多分にあるのも事実だと思う。

長く続けてこれたことを才能と呼び、その歩んできた足跡を努力という、そんな風に思うのだ。
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by masagorotabi | 2012-12-25 19:11 | 雑想 | Comments(0)