カテゴリ:雑想( 76 )

文学的?

戸籍上162歳の人が生存になっているというニュースを見ていたら、野呂邦暢の随筆を思い出しました。

住民票も文学だと思っている、といった文章でした。
私的にはハテナマークでしたが、162歳の人が生存という話だと、これも文学だなあと思った次第です。

野呂邦暢の先見の明には驚きです。
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by masagorotabi | 2010-08-26 22:00 | 雑想 | Comments(0)

ペーパーボーイズバッグ

「人はパンのみでは生きられない」とは、聖書の言葉だったと思うけども、本来の意味はどういいうものなのだろう。

別ブログにも書きましたが、ペーパーボーイズバッグとは、アメリカの新聞配達少年が配る時に持つバッグのことです。

貧しさの中で新聞を配っていた少年もいただろう。
大人になり、経済も豊かになり、美味しいものも腹一杯食べられるようになった。

しかし、何かが物足りない。
足らないものは、どこにあるのだろう。
お金、権威?

今の僕は、それはペーパーボーイズバッグの中にあったのではないかと思っている。
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by masagorotabi | 2010-08-20 23:31 | 雑想 | Comments(0)

クサイものには蓋をしろ

テレビはあまり見る方ではないですが、CMを見ていたらちょっと気になることがありました。
「クサイ」という言葉が頻繁に使われることに関してです。

視聴者に、強迫観念を植え付けて商品を売ろうという魂胆なのだろうけど、この言葉はいじめの時に使われることが多い。
「キモイ」という言葉と同様に、常套文句化している。

そういう言葉を電波に乗せて発するということに、違和感を感じたわけです。
クリエイターが、好んでこういた言葉を多用しているとは思わないけれど、もっと美しい言葉で商品の良さを伝えることはできないのだろうか。
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by masagorotabi | 2010-07-15 20:14 | 雑想 | Comments(0)

永遠の未完成

NHKの「日曜美術館」という番組をたまたま見ていた時に、長谷川りん二郎のことが特集されていました。
探偵小説家であり画家であったのですが、お金や名誉のために絵を描くのではなく、あくまでも好きであるから絵を描きます。

その画風や書き方も独特であり、その対象をよく見て、時間をかけて描いていきます。
だから、何年もかかったり、完成しなかったりします。

解説者が言っていましたが、りん二郎の絵の中の対象物は、みな平等であり、それだから見る人の平衡感覚を養っているのかもしれません。

昨日の「日曜美術館」は、葛飾北斎の特集でした。
80歳になっても、ネコ一匹描けやしないと娘に嘆いたそうですか、食べることよりも絵を描くことが好きだった北斎もまた、画家としての執念を感じます。

ネコで思い出しますが、りん二郎の絵で一番有名なのは、ネコの絵です。
ですが、そのネコの絵には片方のヒゲがありません。
飼い猫が死んでしまったからです。

未完成なのか、それとも未完成だからこそ完成された絵なのか、それは静ひつの暮らしの中で、絵を見つめていたお二人にしか分からないことなのかもしれません。
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by masagorotabi | 2010-07-13 20:46 | 雑想 | Comments(0)

平等感覚

新聞の書評を見ていたら、比叡山の開祖、最澄の言葉が載っていました。

有名な教えで「一隅を照らす、これすなわち国宝」というのがありますが、学説では違うらしく「千を照らす一隅」が国の宝だそうです。
ようするに、自分のやるできことをきっちりやることが、貴いことだという教えです。
マザー・テレサも、同じようなことを言っていたのを思い出しました。

某自動車会社の最高責任者の役員報酬が9億円という話がニュースにありました。
確かに優秀なのだろうけども、期間工数百人の代わりにはなれない。
こうしたことが不平等を感じる起因なのかもしれません。

経済学者のケインズは、20世紀末には1日の労働時間は5時間と予測しました。
見事に外れましたが、5時間といえば江戸庶民の労働時間は5時間程でした。
それでも優雅に時代をエンジョイしました。

僕らには僕らの生活がある、それは貴い時間の過ごし方なのであって、何ものにも代えることはできない時間でもあると僕は思います。
自分がどうキラキラした時間を過ごすことができるのか、それを邪魔する奴は許さない。
これが僕の平等感覚というものです。
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by masagorotabi | 2010-06-25 20:22 | 雑想 | Comments(0)

平衡感覚

以前、バイクで林道を走っていた時に、草刈りをする人たちに出会ったことがありました。
男女の年輩の2名だったと思いますが、そこを通過しようとしたときに男の人が僕を睨み付けます。

もちろん睨み付けられるようなことはしていませんが、おそらく僕が見てはいけないものを見てしまったのと、彼等が見られてはいけないものを見られてしまった、のだと思います。

近年、手入れの行き届かない林道だなあと思っていましたが、このような理由だったのかもと合点が行きました。

問題は、僕がなぜ睨まれたかですが、自らのみじめな事に対する視線に耐えられなく、逆に、敵に対する視線と同じように睨んできたのかもしれません。

人は、精神の平衡を保とうとしますが、陰口と同じでこうした行為に及ぶのかもしれません。
似たようなことは、日常的にもよくみられますが、お互いが不幸になることです。

その不幸でさえ、「他人の不幸は密の味」と云われますが、その密の味は致死量未満であると僕は思います。
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by masagorotabi | 2010-05-22 19:12 | 雑想 | Comments(0)